軍艦島(端島)を120%満喫するために知るべき「特異な歴史と見どころ」

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筆者 : GOOD LUCK TRIP

その特異な歴史やコンクリートの廃墟が立ち並ぶ異様な景観から、注目を集める
軍艦島(端島)」。
個人での上陸は禁じられており、観光するためにはツアーに参加するしかなく、観光するハードルも高い。
この記事では「軍艦島(端島)」という名前しか知らない方に向けて、特異な歴史と一期一会の見どころを紹介しよう。

目次

「軍艦島(端島)」ってどんなところ?

長崎県長崎市の「長崎港」から船で約40分移動した場所にある「端島」。
高層鉄筋コンクリートの建物が密集する見た目が、日本軍の造っていた軍艦「土佐」に似ていることから「軍艦島」と呼ばれるようになった。
炭鉱開発のために岩礁の周りを埋め立てて造られた人工の島で、面積は約6.3ha・長さ480m・幅160mの小さな島だ。
最盛期にはこの小さな島に約5,300人もの人々が暮らし、人口密度は当時の東京都23区の約9倍。世界一の人口密度だった。

主なエネルギーが石炭から石油へと移り変わったことをきっかけに、炭鉱は閉鎖され、「軍艦島(端島)」の全島民が島から離れた。
現在は無人島になっているが、建物の廃墟は残り続けている。
2015年には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の1つとして、世界文化遺産に登録された。

島内の人々が生活していた建物が廃墟として残る軍艦島(端島)
島内の人々が生活していた建物が廃墟として残る軍艦島(端島)

訪れる前に知っておくべき「軍艦島(端島)」の歴史

廃墟となった「軍艦島(端島)」を楽しむには、その歴史を知る必要がある。
歴史を知ることで、そこで暮らしていた人々を想像できるようになり、廃墟から当時の人々の息遣いや生活を感じられるようになるはずだ。
「軍艦島(端島)」の観光ツアーを満喫するために、知っておきたい特異な歴史を詳しく紹介していこう。

軍艦島(端島)が造られた理由

1810年頃に「軍艦島(端島)」の海底に、石炭が埋まっていることが発見されて採掘が始まった。
1890年に三菱鉱業(現 三菱マテリアル株式会社)が島を買い取り、炭鉱として開発し、本格的な採掘を始める。
近代化を進めていた日本の主なエネルギー源だった石炭は、当時の日本にとって無くてはならない資源だった。
採掘には多くの人手が必要であり、船で通勤すると大変だったため、採掘する人々が島で暮らせるようにアパートが建てられていった。
人や建物が増えていくごとに、埋め立てが進み、最終的には元々の面積の3倍にもなった。
それでも決して大きな島ではなかったため、高層のアパートが必要となり、日本で初めて鉄筋コンクリートのアパートが建てられた。

日本初の鉄筋コンクリートのアパート
日本初の鉄筋コンクリートのアパート

最盛期の軍艦島(端島)の暮らし

最盛期の1960年にもなると、軍艦島(端島)には約5,300人が暮らし、世界一の人口密度を誇った。
島内にはアパートだけでなく、売店・病院・理髪店・飲食店、映画館やプール、学校など、生活や娯楽に必要な施設が作られ、島内で不自由ない生活が送れるようになっていった。
炭鉱で働く人々は所得が高く、カラーテレピの普及率が10%しかなかった時代に、島内では100%の人が所有していた。
当時の最先端の技術を駆使したエレベーターがあるなど、日本本島で暮らす人々と比べても遜色ないどころか、進歩的で裕福な生活を送っていた。

最盛期には世界一の人口密度を誇った「軍艦島(端島)」
最盛期には世界一の人口密度を誇った「軍艦島(端島)」

炭鉱の閉鎖から世界文化遺産に登録されるまで

栄えていた軍艦島(端島)だが、主なエネルギー源が石炭から石油に変わったことをきっかけに衰退していく。
1974年1月15日に軍艦島(端島)の炭鉱が閉鎖となり、同年4月20日には全島民が島を離れた。
無人島となった「軍艦島(端島)」は、安全面を考慮して一般立ち入りは禁止された。
2001年に「三菱マテリアル株式会社」から、長崎市高島町に譲渡されて、現在は長崎市が所有している。
長崎市によって見学道路が整備されたことで、2009年に見学ができるようになった。
ただ、廃墟となった建物が崩落する可能性があるため、見学できる範囲は決められている。
2015年には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の1つとして、世界文化遺産に登録された。

世界文化遺産にもなった「軍艦島(端島)」
世界文化遺産にもなった「軍艦島(端島)」

軍艦島(端島)へのアクセス

「軍艦島(端島)」へは長崎市の市街地から船でアクセスできる。
ただ、個人で「軍艦島(端島)」へ上陸することは禁じられており、軍艦島ツアーやクルーズに申し込む必要がある。
軍艦島ツアーの内容は運営会社によって異なるため、公式サイトを確認してほしい。
軍艦島に上陸できるツアーやクルーズは、下記の5つだ。

軍艦島(端島)のお勧め観光シーズンは?

「軍艦島(端島)」に上陸するためには、天候と安全基準を満たす必要がある。
そのため、軍艦島ツアーやクルーズに参加しても、波の高さや天候によっては上陸できないことも。
冬は上陸できる確率が低くなる傾向があるため、4月〜10月の間に訪れることをお勧めする。

上陸前に知っておきたい「軍艦島(端島)」の見どころ

「軍艦島(端島)」は見学できるエリアが決まっており、「第一見学広場」から「第二見学広場」、そして「第三見学広場」へと進んでいく。
どの廃墟も少しずつ崩壊が進んでいるため、同じ状態では2度と見られないかもしれない。
「軍艦島(端島)」で訪れる一期一会の出会いを楽しむためにも、見どころを把握しておこう。

日本初の構造を持つ「ドルフィン桟橋」

「軍艦島(端島)」には、「ドルフィン桟橋」からしか上陸できない。
「ドルフィン桟橋」とは、堤防がない沖合に杭を打って作られた係留施設のこと。
「軍艦島(端島)」が出来たばかりの頃は、島に近づいたら小船に乗り換えて、島へ上陸していた。
ただ、海がしけると上陸が困難になることから、「ドルフィン桟橋」が作られた。
現在の「ドルフィン桟橋」は改良を重ねた三代目。
波の上下と潮の満ち引きに応じてタラップが上下する、日本初の構造となっている。
上陸ポイントである「ドルフィン桟橋」自体も特徴があるため、見逃さないように。

日本初の構造を兼ね備えた「ドルフィン桟橋」
日本初の構造を兼ね備えた「ドルフィン桟橋」

島民の生活エリアの面影を残す「第一見学広場」

「軍艦島(端島)」上陸後、最初に訪れる「第一見学広場」。
島の東端に位置し、島内最大の建造物である65号棟や、日本一高層だった7階建ての端島小中学校、炭坑で働いていた人々の社宅の廃墟が見られる。
端島小中学校には、当時最先端だったエレベーターが設置されていた。

日本一高層だった7階建ての端島小中学校の廃墟
日本一高層だった7階建ての端島小中学校の廃墟

炭鉱の面影を色濃く残す「第二見学広場」

「第二見学広場」では主に炭鉱で働いていた人々の面影が残る建物が見られる。
見学可能な広場の中で、最も近距離で廃墟を見られるのが、「第二見学広場」だ。

赤いレンガの壁が一際目を引く「旧第三竪坑捲座跡」と、地下636mにも及ぶ「第二竪坑」へ行くために設けられた桟橋跡が見どころ。
世界遺産に登録された対象物である、海岸線に作られた「護岸」も間近で見られる。
実は「軍艦島(端島)」全体が世界文化遺産として登録されているわけではなく、島内の「護岸」と「海底坑道」の2つが世界文化遺産として登録されている。
現在は「海底坑道」に入れないため、唯一直接見られる世界遺産である「護岸」もしっかり見ておこう。

見学可能なエリアの中で最も近くで廃墟を見られる「第二見学広場」
見学可能なエリアの中で最も近くで廃墟を見られる「第二見学広場」

日本最古の鉄筋コンクリート造りアパートが見られる「第三見学広場」

最後の見学場所である「第三見学広場」。
見どころは日本最古の鉄筋コンクリートで作られたアパート30号棟。
1916年に建てられたため、100年以上もの時が経っている。
アパート30号棟と並び立つ、アパート31号棟は郵便局や理髪店、銭湯が入っていた施設。
アパート30号棟は特に劣化が進んでおり、倒壊の可能性が高くなっている。
参加するツアーにもよるが、「第三見学広場」で写真撮影のための自由時間が取られることが多い。

日本最古の鉄筋コンクリートで作られた「アパート30号棟」
日本最古の鉄筋コンクリートで作られた「アパート30号棟」

軍艦島(端島)周辺の観光スポット3選

「軍艦島(端島)」への出発地点となる「長崎市」にある、特に人気の観光スポットをご紹介。
長崎の歴史を感じられるスポットばかりなので、「軍艦島(端島)」と合わせて、長崎の歴史スポットを巡る観光プランを立ててみてはいかがだろうか。

1. オランダ坂

長崎の観光名所の中でも有名なオランダ坂とは、外国人居留地があった山手地区に残っている石畳の坂道のこと。
居留地時代、長崎の人々は外国人を「オランダさん」と呼んでおり、外国人が通る坂道はどれもオランダ坂と呼んだことがその名のゆえんになっている。
代表的なオランダ坂は活水学院下の坂、活水坂、誠孝院(じょうこういん)前の坂。
活水学院下の坂は、居留地を造る際に切り開かれた道で、この坂を上がるとオランダ坂の石碑が見える。

長崎らしい洋館群へ続く石畳の坂道風景を望むならここへ
長崎らしい洋館群へ続く石畳の坂道風景を望むならここへ

2. 出島

鎖国時代の約200年間、唯一西欧との貿易が許されていた出島。
寛永13 (1636) 年に海を埋め立てて築いた扇型の島で、さまざまな貿易品だけでなく、食文化や西洋の学問のほかビリヤードやバドミントンなどの遊びもここから日本各地へ伝わっていった。
幕末以降に埋め立てられ跡形もなかった出島だが、近年復元整備が進み往時の姿を再現。カピタン部屋やヘトル部屋など彼らの住居をはじめ、輸入品や輸出品が収められていた蔵、料理部屋などを復元し、再現された部屋内部の様子や輸出入品の展示も見られる。

貿易の窓口として栄えた人工の小さな島「出島」で、19世紀初頭の姿を垣間見る
貿易の窓口として栄えた人工の小さな島「出島」で、19世紀初頭の姿を垣間見る

3. 浦上天主堂

明治6(1873)年、長かったキリシタン弾圧の禁制が解かれ浦上の信徒たちにより建設が計画されたが、当初は資金が集まらなかった。
明治28(1895)年にフレノ神父の設計により教会の建設が開始され、30年後の大正14(1925)年、石とレンガ造りのロマネスク様式としては東洋一と称された大聖堂が完成。
正面双塔には高さ26mものアンジェラスの鐘が備えられた立派なもので、信徒の誇りであり信仰の象徴となった。

爆風に耐えたアンジェラスの鐘の音が響く、美しいレンガ造りの教会堂
爆風に耐えたアンジェラスの鐘の音が響く、美しいレンガ造りの教会堂

軍艦島(端島)に関するよくある質問

Q

「軍艦島(端島)」で飲み物や食べ物は買える?

A

「軍艦島(端島)」には自動販売機や売店などの施設はなく、トイレもないため、ツアー出発前に準備しておきましょう。

Q

「軍艦島(端島)」を個人で観光できる?

A

個人での上陸・観光は禁止されているため、軍艦島ツアーに申込む必要があります。

Q

「軍艦島(端島)」では自由行動できる?

A

ツアーにもよりますが、基本的には見学可能エリアを団体行動でガイドさんと一緒に巡ります。ツアーの最後に写真撮影のために自由時間が設けられることも多いです。

まとめ

「軍艦島(端島)」を観光する上で、知っておくべき特異な歴史と見どころを紹介してきた。
「軍艦島(端島)」の歴史を知った上で観光すれば、当時の人々の生活や働き方を想像できて、廃墟や廃墟が立ち並ぶ様子を見る面白さも変わるだろう。
ツアーに参加しないと観光できないため、ハードルは高いが、興味がある方はぜひ観光してみてほしい。
「軍艦島(端島)」の廃墟は崩壊が進んでおり、いつまでも廃墟が見られるとは限らない。