歴史を知れば日本旅行がもっと楽しめる!「日本の歴史」をわかりやすく解説
観光スポットや歴史的建造物など、観光でよく訪れる場所の背景を知れば、日本をもっと楽しめるはず。 その背景となるのは当然、日本の歴史です。 原始時代から綿々と続く日本の歴史の流れと、各時代ごとに起きた主な出来事を一挙にご紹介。 日本を旅行する前に、日本の歴史を勉強してみてはいかがでしょうか。
国としての基礎が出来上がり、権威の象徴としての古墳が最盛期を迎えた時代
当時の権力者のお墓である前方後円墳が作られ始め、全国的に広まっていった2世紀中頃から5世紀ごろは、古墳時代と呼ばれています。
古墳時代は初めての統一政権である「大和政権」が成立し、国としての基礎が出来た時代でした。
どのように統一政権が出来上がり、国としての形を成していったかを、当時の文化とともに振り返っていきましょう。
縄文時代や弥生時代と比べると期間が短い古墳時代ですが、国としての基礎が出来た重要な時代でした。
また、「古墳」と呼ばれる特徴的なお墓の最盛期でもあった古墳時代。
どのような時代か知るために、大きな出来事に絞って振り返っていきましょう。
大和朝廷は朝鮮半島の進んだ文化や、朝鮮半島でたくさん採れる鉄を手に入れるために、4世紀後半から、朝鮮半島に進出していきました。
朝鮮半島にあった国家・百済と伽耶と同盟を結び、同じく朝鮮半島にあった国家の高句麗・新羅と戦いますが敗北。
この朝鮮半島での戦争による混乱を避けるため、朝鮮半島に住んでいた多くの人々が日本にやってきます。
朝鮮半島から日本に渡ってきた人々は渡来人と呼ばれ、朝鮮や中国の文化や技術、政治システムを日本に伝えました。
日本にはない知識と技術を持った人々を、大和政権は持っていた技術の種類ごとに、韓鍛治部(からかぬちべ)・陶作部(すえつくりべ)・錦織部(にしごりべ)・鞍作部(くらつくりべ)と分けて、各地に居住させました。
この頃から少しずつ漢字も使われるようになり、文字・技術・政治システムを輸入した大和政権と日本の文化は大きく発展し、国としての基礎が出来ました。
古墳時代の人々がどのように生活していたかを、住居と道具という観点に絞って紹介していきます。
古墳時代の住居や道具から、当時の人々がどのように生活していたか想像してみると、より日本の歴史が楽しめるはずです。
古墳時代になると支配者である大王や豪族と、庶民との生活格差が広がっていきました。
その格差は住居へ如実に表れます。
古墳時代の豪族は集落から離れた場所に、柵や壕を張り巡らせた住居を作って、生活していました。
時代が進むに連れて豪族の住居は大きくなっていき、一辺数十メートルにもなる高床の掘立柱建物に住む豪族も現れ始めます。
その一方で、庶民の住居は弥生時代と同じく竪穴住居でした。
竪穴住居とは、地面を四角に掘って、雨が入らないように土を積み上げて作り、対角線上に立てた4本の柱に茅や藁で屋根を葺いた質素な住居です。
広さは16〜25平方メートルが一般的で、一軒あたり4〜7人ぐらいの人が住んでいたと考えられています。
5世紀頃に渡来人によって新しい文化や技術が伝えられると、土器も変化していきました。
窖窯(あながま)と呼ばれる地下式・半地下式の登り窯を用いて高温で焼くことで、強く焼き締り、今までの土器よりも硬度を得ました。
また、住居の中に据えた竈で米を蒸す調理方法が広まったことで、水を沸騰させるための甕と食べ物を蒸すための甑も発展し広まっていきます。
古墳時代の土器は大きく分けて2種類あり、弥生土器の伝統を受け継いだ土師器(はじき)と、朝鮮半島から伝わった青灰色をした硬い須恵器(すえき)です。
土師器が日常的に使われる土器で、須恵器は貯蔵と供膳に使われた土器でした。
須恵器を作るにはたくさんの人手と燃料、高い技術が必要であったため、各地の有力者が工房や専門の職人を集めて作らせていました。
弥生時代に広まった稲作が、より大規模に行われるようになった古墳時代。
竈門の強い火でお米を炊くようになり、美味しく炊けるようになりました。
木の実も相変わらず重要な栄養源で、アク抜きしてクッキーのように焼いて食べていました。
このように調理方法も大きく変わった古墳時代ですが、最も大きな調理法の変化は加工食品が生産できるようになったことです。
塩漬けにして長持ちさせるための調理方法が中国から伝わり、塩漬けの発酵食品「醤(ひしお)」とよばれる発酵食品が作られるようになっていきます。
古墳時代の発酵食品を作る文化が、のちに味噌や醤油・漬物・塩辛の発明に繋がっていきます。
古墳時代とは名称からもわかる通り、古墳が普及した時代です。
古墳とともに普及した埴輪(はにわ)も知ることで、古墳時代をさらに理解できるようになるはずです。
古墳とは、土を盛り上げて作った墳丘を持った墓のことです。
弥生時代から古墳自体はありましたが、古墳時代に入ってから規模がどんどん大きくなっていきました。
古墳時代の古墳でも特徴的な古墳が、前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)です。
前方後円墳とは、円形の丘に方形の突出部がついた形式の古墳で、3世紀前半に現れて古墳時代の間に北海道と沖縄を除いた地域に広がっていきました。
当時の豪族はお墓の大きさで人々に権威を示し支配していたことから、古墳は広まり巨大化していったと考えられています。
古墳と同じく、埴輪も古墳時代を象徴する文化です。
埴輪とは、古墳の上や周囲に並べられる素焼きの焼き物で、死者の魂を守ったり鎮めたりすると考えられていました。
埴輪の種類は非常に多く、日常的に使われる土器の形をしたものや、武器の形をしたもの、動物や人間の形をしたものなど、様々な形状の埴輪が作られていました。
古墳時代の象徴である古墳は、現代の日本にも数多く残っています。
まだショベルカーなどの機械もない時代に、大きな古墳を作り上げた技術や工夫、努力に思い馳せるために、当時の文化を肌で感じるために、古墳へ訪れてみてはいかがでしょうか。
吉見百穴は古墳時代後期に造られた横穴墓で、1923年に国の史跡に指定されました。
横穴墓は丘陵や台地の斜面を掘削した特殊な形状をしたお墓です。
また、古墳時代の特徴的な文化である埴輪を作る体験もできます。
古墳時代の豪族・宗像氏は沖ノ島に宿る神への信仰から、宗像三女神信仰を育みました。
その宗像氏が築いた墳墓が「新原・奴山古墳群」です。
沖ノ島へと続く海を見渡せる東西800mの台地に、前方後円墳5基、円墳35基、方墳1基と、合計41基が点在。
2017年には世界遺産にも登録されています。
前方後円墳など古墳の形や、古墳の周囲をめぐる溝などもかつての姿を留めているため、散策しながら古墳群を楽しめます。