歴史を知れば日本旅行がもっと楽しめる!「日本の歴史」をわかりやすく解説
観光スポットや歴史的建造物など、観光でよく訪れる場所の背景を知れば、日本をもっと楽しめるはず。 その背景となるのは当然、日本の歴史です。 原始時代から綿々と続く日本の歴史の流れと、各時代ごとに起きた主な出来事を一挙にご紹介。 日本を旅行する前に、日本の歴史を勉強してみてはいかがでしょうか。
1336年から1573年まで、200年以上続いた室町時代。
前半は南北朝時代、後半は戦国時代と分けられることもあるほど、長く様々な出来事があった時代でした。
室町時代に起きた出来事とその時代に隆盛した文化を振り返っていきましょう。
室町時代の前半「南北朝時代」は、朝廷が南朝と北朝に分かれた上に、幕府も内部分裂した、混迷を極めた時代。
その中で幕府も朝廷も力を失っていき、代わりに各地の有力者や農民・武士が力を増したことで、下克上の時代が訪れました。
下克上の時代に権力と領土を獲得した「戦国大名」同士が、さらなる領土を求めて奪い合い、有名な「戦国時代」へと突入していきます。
室町時代に起きた大きな出来事を軸に、時流がどのように変わっていったか振り返っていきましょう。
鎌倉時代の中期から、大覚寺統(だいかくじとう)と持明院統(じみょういんとう)の2つの皇統(天皇の血筋)が、交代で天皇を務めることを鎌倉幕府が強制していました。
しかし、どちらの皇統も自身が正統な皇統だと思っていたため、鎌倉幕府への不満が高まっていきます。
大覚寺統の皇統である後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、自らの子孫を天皇にしたいと考え、遂には挙兵して鎌倉幕府を滅ぼしました。
倒幕に成功するものの、公家を優遇した政治に不満を抱いた武将・足利尊氏(あしかがたかうじ)が挙兵し、湊川の戦いで後醍醐天皇は敗れます。
足利尊氏が持明院統の光明天皇(こうみょうてんのう)を擁立し、室町幕府を開いたことで室町時代が始まります。
湊川の戦いに敗れて吉野に逃れた後醍醐天皇ですが、それでも諦めず、自身の正当性を主張して吉野に朝廷を開きます。
持明院統の光明天皇を中心とする京都の「北朝」と、大覚寺統の後醍醐天皇を中心とする「南朝」の二つの朝廷が同時に存在した、室町時代の前半を「南北朝時代」と呼びます。
南北朝時代には朝廷だけでなく、幕府も足利尊氏とその弟の足利直義(あしかがただよし)の対立から、二人の派閥に内部分裂していきました。
朝廷と幕府それぞれが二つに分かれ、対立したことをきっかけに、幕府と武士団を結びつけていた主従関係が崩れます。
武士団は自身の土地を確保することを目的とした集団へと変化していき、武士団同士も誰が敵で誰が味方かわからない状態になっていきました。
混乱していく各地域を治めるために、幕府は地域の支配者として有力な武士を「守護」として派遣。
地域を治めるために、守護の権限と権力を強化していくことで、「守護大名」と呼ばれるまで成長していきました。
地域の混乱がおさまり、幕府の力が強まるにつれて、南朝と北朝の力は弱体化。
室町幕府の三代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)が、弱体化した南朝と北朝を合一させたことで、南北朝時代は終わりを迎えます。
足利家の地位を盤石にするために、足利義満は力を持ちすぎた守護大名たちの討伐を始めます。
36歳で、息子の足利義持(あしかが よしもち)に将軍の地位を譲りますが、その後も実権は握り続けました。
公家の最高位である太政大臣にも上りつめ、仏教勢力にも影響力を及ぼすために出家し、多方面にわたる、絶大な権力と影響力を手に入れます。
その権力を行使して日明貿易を始め、莫大な貿易利潤をも獲得します。
足利義満は文化面にも大きな影響をもたらし、金閣寺に代表される北山文化を開花させた他、観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)らを後援し、猿楽の発展に寄与しました。
八代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)には、世継ぎとなる子どもが生まれませんでした。
次期将軍に就かせるために、弟だった足利義視(あしかが よしみ)を養子に迎え入れますが、妻・日野富子(ひのとみこ)との間に子が誕生してしまいます。
足利義政は息子の足利義尚(あしかがよしひさ)に、世継ぎを変更する方針を発表。
次期将軍の候補だった足利義視は当然反対し、足利義政・足利義尚と対立します。
足利家の世継ぎ問題に、守護大名の勢力争いも絡み合っていきました。
遂には、足利義視と守護大名の細川勝元(ほそかわ かつもと)を中心とした東軍と、足利義尚と山名宗全(やまな そうぜん)を中心とした西軍とに分かれた戦、「応仁の乱」へと発展。
各地の守護大名も東軍と西軍にそれぞれ参加する大規模な戦が11年間も続きました。
細川勝元と山名宗全の死去や、足利義視と足利義尚の和睦によって、応仁の乱は終結を迎えます。
11年も続いた応仁の乱によって、京都は焼け野原となり、室町幕府や守護大名の権威も失墜しました。
その代わり、地元の有力武士たちが権威と力をつけていきます。
応仁の乱によって、室町幕府と守護大名に不満を持った農民たちは、年貢の軽減や借金の帳消しを求めた土一揆(つちいっき)を起こします。
土一揆の規模と要求は年々拡大を続け、守護大名から支配権を奪い取る国一揆(くにいっき)へと発展。
山城国一揆(やましろのくにいっき)では、守護大名である畠山氏(はたやまし)が国から追い出され、武士と農民による自治的な支配が実現しました。
一揆が成功していくことで、幕府に任じられた守護大名が国を治める、従来の体系は崩壊。
兵力と財力を集められる者が権力を持つ、弱肉強食の時代が始まりました。
下克上によって権力と領土を獲得した戦国大名や、各地で力を蓄えていた守護大名、宗教勢力が加わり、領土を巡る戦が続く「戦国時代」が始まります。
戦国時代には数多くの戦国大名が領土を巡る争いを続けていましたが、戦国大名の一人・織田信長(おだ のぶなが)が台頭していきます。
駿河(現在の静岡)の大名である今川義元(いまがわ よしもと)が上洛する過程で、織田信長は領地を攻め込まれ、「桶狭間の戦い」が勃発。
4千人の兵士しかいなかった織田軍ですが、大将の今川義元に狙いを絞った綿密な計略により、2万5千人もの兵士がいる今川軍に勝利します。
「桶狭間の戦い」の勝利によって、織田信長の名前は各地に轟くことになりました。
戦国大名が戦に明け暮れている時期、室町幕府は当時の将軍・足利義輝(あしかが よしてる)が討ち取られ、将軍がいない状態でした。
足利義輝の弟・足利義昭(あしかが よしあき)は幕府を再興するために、各地の大名に援助を求めます。
その援助に答えた武将こそが織田信長でした。
天下統一を目指す織田信長は京都を支配することが重要だと考えており、足利義昭と利害関係が一致します。
幕府復興という名目を掲げて、織田信長は西へ勢力を伸ばしていきました。
織田信長よりも強い勢力を持った戦国大名は多く、特に武田信玄(たけだ しんげん)と上杉謙信(うえすぎ けんしん)は戦国時代最強と呼ばれていました。
ただ、その二人の戦いは長らく決着がつかず、織田信長に力を回す余裕はありませんでした。
勢力を伸ばし続けた織田信長は、足利義昭を擁して上洛。
足利義昭が室町幕府15代将軍となり、織田信長は室町幕府という後ろ盾を得ました。
幕府を復興させたい足利義昭と天下統一したい織田信長は、その方向性の違いから次第に対立。
足利義昭は諸大名や仏教勢力(延暦寺・本願寺)などを連合させて包囲網を作り、織田信長を倒そうとしますが、失敗に終わります。
その後も何度も織田信長を倒そうと企みますが、最後は織田信長によって追放され、室町幕府は滅びました。
室町時代の文化は、足利義満が将軍だった時期に開花した「北山文化」、足利義政が将軍だった時期に栄えた「東山文化」に分かれています。
海外との交易によって大陸文化が伝えられると、武家は公家文化・大陸文化を融合させた、新しい武家文化を開花させていきました。
三代将軍・足利義満の別荘・北山殿を中心に栄えた「北山文化」。
貴族の住宅様式に「武家の風格」と「禅宗の落ち着き」が見事に融合された、北山殿は北山文化を代表する建造物と言っても過言ではありません。
北山殿は金閣寺として名前を変え、現代でもその姿を見られます。
鎌倉時代に日本へ持ち込まれた、山や水などの自然を題材とした山水画をベースに、墨を水で薄め、濃淡やぼかしが特徴的な水墨画は北山文化の中で誕生しました。
他にも、申楽師であった観阿弥や世阿弥の活躍により、能・狂言がさらに発展したのも、北山文化の特徴です。
東山文化は八代将軍・足利義政が築いた隠居所「東山山荘」を中心に発展していきました。
公家・武家・禅宗の文化が融合した北山文化をベースに、禅の特色を強めた「東山文化」。
禅の簡素な物に美しさを見出すという精神と、日本の美意識のひとつである侘(閑寂な趣)・幽玄(趣が深く味わいが尽きないこと)を落とし込まれた「東山山荘」は、江戸時代に銀閣寺と名を変え、現代の日本でも見られます。
北山文化で生まれた水墨画は、中国で絵の技術を学んだ雪舟(せっしゅう)がさらに発展させ、日本独自の水墨画を作り上げました。
雪舟の代表的な作品には「四季山水図」や「秋冬山水図」・「天橋立図」があり、国宝に指定されています。
他にも、茶人・村田珠光(むらた じゅこう)によって、侘びの精神を重んじた「侘茶」と言われる茶道が登場。
日本の伝統文化である茶道の基礎は、東山文化で作られました。
「枯山水」と言われる石の組合せや地形の高低などによって、山水の趣を表した庭園もこの頃に造られました。
数多くの偉人が活躍した室町時代には、偉人の面白いエピソードがたくさん残っています。
また、農民・武士の力が増してきたこともあり、庶民も少しずつ裕福になって、風習も変わっていきました。
室町時代をもっと楽しむために、当時の面白いエピソードや庶民の風習を3つに絞ってご紹介。
面白いと思った方は、ぜひ室町時代をさらに深堀りしてみてください。
南朝と北朝に分かれていた朝廷を一つにまとめるという、偉業を成し遂げた室町幕府の三代将軍・足利義満。
京都へと戻る道中に、綺麗な景色を見た幼少時代の足利義満。
家臣たちに「ここの景色は美しいから持って帰ろうぞ!」「お前たちが担いで帰れ!」と話したと伝えられています。
なかなかの大物発言で家臣たちを驚かせました。偉業を成し遂げる人物らしいエピソードですね。
足利義満の別荘である、金箔で飾られた金閣寺。
きらびやかな金閣寺ですが、実は一階に金箔は貼っていません。
なぜでしょうか。
金閣寺の一階は公家の住居と同じ寝殿造り。
2階は武家造りになっており、3階は禅宗の様式である仏殿造りとなっています。
つまり、一階に金箔が貼られていないのは、公家や平安貴族を下に見ているという足利義満の隠れたメッセージだったという訳です。
貧しい人々に寺院の浴室を解放して入浴を施す「施浴」は、室町時代に庶民にも施されるようになりました。
次第に「施浴」の習慣が庶民にも浸透していきますが、裕福な家にしか風呂はありません。
風呂がある家は客人を招待し、自宅の風呂に入浴してもらい、入浴後に茶・酒や食事などを用意する「風呂ふるまい」が習慣化していきます。
お風呂の後に飲んだり食べたりして幸せを感じるのは、室町時代から変わらないようです。
室町時代の北山文化・東山文化に建てられた建造物や、描かれた水墨画は現代の日本にも数多く残っており、重要文化財や国宝に指定されています。
この記事を読んで室町時代に興味を持った方は、紹介する歴史散策が楽しめるスポットにぜひ訪れてみてください。
室町幕府の第3代将軍、足利義満がその住まいとした「北山殿」を由来とする寺院。
義満の法名をとって鹿苑寺と名づけられ、自身が創建した相国寺の山外塔頭寺院(=本院とは別の場所に造られた隠居後の庵を寺にしたもの)となっています。
室町幕府の八代将軍、足利義政が建てた山荘、「東山殿」を元とした寺院。
金閣寺とともに相国寺の山外塔頭寺院(=本院とは別の場所に造られた隠居後の庵を寺にしたもの)となっています。
義政の死後、法名から慈照寺と名づけられました。