歴史を知れば日本旅行がもっと楽しめる!「日本の歴史」をわかりやすく解説
観光スポットや歴史的建造物など、観光でよく訪れる場所の背景を知れば、日本をもっと楽しめるはず。 その背景となるのは当然、日本の歴史です。 原始時代から綿々と続く日本の歴史の流れと、各時代ごとに起きた主な出来事を一挙にご紹介。 日本を旅行する前に、日本の歴史を勉強してみてはいかがでしょうか。
推古天皇が即位した593年から、平城京へ遷都した710年までの時代を「飛鳥時代」と呼びます。
仏教伝来に伴い、様々な文化や政策や考え方が日本に伝わったことで、様々な面で日本が大きく変わった時代です。
日本という国が天皇を中心とする律令国家を目指し、政策を推し進めたのも飛鳥時代でした。
日本がどのように変わり、天皇を中心とする律令国家となる基礎をどのようにつくり上げたかを振り返っていきましょう。
飛鳥時代で有名な人物と言えば「聖徳太子」。
聖徳太子は様々な逸話が残る偉人ですが、何よりも天皇を中心とした律令国家を目指した政策を推し進めたことが最も大きい功績と言えます。
仏教の伝来と聖徳太子の政策を機に、日本がどのように変わり、どのように律令国家を目指していったかを振り返っていきましょう。
古墳時代末期から飛鳥時代前期にかけて日本に伝来した仏教が、権力争いの火種となりました。
権力を持っていた豪族間で、仏教を受け入れるか否かで意見が分かれ、派閥が生まれます。
派閥争いは朝廷内の権力闘争へと発展していきました。
権力闘争の中で、崇仏派(仏を崇拝する人々)の蘇我馬子(そがのうまこ)が台頭。
朝廷内で最大の実力者となった、蘇我馬子が擁立した推古天皇が即位したところから、飛鳥時代が始まります。
女性だった推古天皇は傀儡とされないように、補佐役の摂政という地位を作り、聖徳太子を任命。
蘇我馬子と推古天皇の権力と聖徳太子の手腕を活かした、国力を強める改革が始まっていきます。
天皇の元に能力ある役人を集めて働かせるために、天皇のために働く心構えをまとめた「憲法十七条」や、個人の能力によって十二段階に分けた朝廷での席次を示す「冠位十二階」などの制度を作りました。
優れた政治力と高い文化を持つ隋(中国)との交流を目的に、聖徳太子は隋に使節を派遣します。
この使節は「遣隋使」と呼ばれ、 遣隋使と一緒に学生や僧侶も隋に渡りました。
天皇を中心とした国づくりを進めていた聖徳太子が亡くなると、蘇我馬子の跡を継いだ蘇我蝦夷(そがのえみし)と、その子・蘇我入鹿(そがのいるか)が実権を掌握。
実権を掌握した二人は、天皇をないがしろにするような行動が目立ち、蘇我氏に対する不満が朝廷内で高まっていきます。
蘇我氏への不満がピークに達し、中臣鎌足(なかとみのかまたり)と中大兄皇(なかのおおえのおうじ)が中心となった反蘇我勢力は、乙巳の変(いっしのへん)を起こします。
中臣鎌足と中大兄皇は、蘇我入鹿を皇居内で暗殺し、蘇我蝦夷も自害させ、蘇我氏を滅ぼしました。
乙巳の変の中心となった中臣鎌足と中大兄皇は、中国(隋や唐)で政治や文化を学んだ留学生達と共に、天皇を中心とした中央集権国家の構築を目指した政治改革を行っていきます。
その政治改革の中で、土地・民を天皇が直接支配し、お金も天皇に集めるための制度を作りました。
乙巳の変から始まった政治改革は「大化の改新」と呼ばれ、律令国家の出発点となりました。
中央集権国家の構築を進めていた日本ですが、外国の情勢の変化により、初めての外征を経験します。
唐(中国)は新羅(朝鮮半島南東部)を従えて、百済(朝鮮半島南西部)へ武力侵攻。
敗戦した百済は、密接な関係にあった日本に助けを求めました。
しかし、百済の要請に応えることは、唐と新羅を敵に回すことを意味します。
唐は東アジアで強い影響力を持つ大国で、交戦して敗れた場合は百済だけでなく、日本も国家存亡の危機に立たされてしまう恐れがありました。
その一方で、唐と新羅に勝利できれば、日本は百済を属国にできます。
揺れ動いた斉明天皇(さいめいてんのう)ですが、百済を助けるために外征を決断。
斉明天皇自ら兵を率いて都を発ちますが、外征を目前にして息を引き取ってしまいます。
息子である中大兄皇子がその遺志を継ぎ、日本軍の大将として外征し、日本初の外国との戦争である「白村江の戦い」が始まりました。
援軍として海路に派遣された日本軍ですが、唐・新羅の連合軍の戦略と自然の力が不利に働いたことで、大敗を喫します。
天智天皇(てんぢてんのう)となった大兄皇子は、唐の侵攻から日本を守るために様々な防衛策を打ちました。
防衛に必要な人員と予算を確保するために、全国規模の戸籍である「庚午年籍」を作成。
九州沿岸に水城を築き、兵士を配置します。
さらには、四方を琵琶湖と山に囲まれた天然の要塞である、近江・大津宮に遷都しました。
しかし、唐の朝鮮半島を支配する野望が表面化したことで、新羅との関係が悪化。
唐と新羅の戦争が始まったため、日本は唐から侵攻されませんでした。
息子である大友皇子(おおとものおうじ)に、皇位を継承させたいと考えた天智天皇。
しかし、当時のルールでは弟である大海人皇子(おおあまのおうじ)が正当な後継者でした。
天智天皇から皇位継承の意志を確認された大海人皇子は、自身の身が危ないと感じ、皇位継承を辞退。
目立たぬように奈良の吉野に移って暮らします。
天智天皇が亡くなると、大海人皇子を滅ぼうという動きが朝廷で表面化。
大海人皇子は、身を守るために各地の豪族を味方に付けて挙兵し、壬申の乱を起こします。
壬申の乱は古代における最大の内乱と呼ばれるほど、大きな内乱となりました。
大規模な内乱は大友皇子を自害に追い込んだ、大海人皇子の勝利に終わります。
大海人皇子は天武天皇として即位。
妻である皇后や皇子を重要な職務や地位に就かせ、天皇を中心とした中央集権的政治構造(皇親政治)を確立しました。
壬申の乱により、天武天皇を脅かす大きな勢力をもった豪族も一掃。
味方についた地方豪族たちは、天皇をおびやかすほどの勢力はなく、武力で天皇の座を勝ち取った天武天皇には誰も逆らえませんでした。
天武天皇は「大化の改新」の方針を引き継ぎ、天皇を中心とした国づくりを進めました。
土地・民の支配を強めるために、唐の支配体制と律令制を導入。
現在の制度に例えるなら、刑法・民法・商法・行政法など、日本国民としてどうあるべきか、という姿を法によって定めました。
天武天皇の死後は、皇后から天皇へと即位した持統天皇(じとうてんのう)にその方針が引き継がれます。
律令国家として着実に体制を整えていき、持統天皇の娘が元明天皇(げんめいてんのう)として即位。
元明天皇が律令制に基づいた政治を行う中心地として、唐の長安を参考に建造した平城京へと都を移し、奈良時代へと移り変わっていきます。
飛鳥時代の文化は、朝鮮半島の百済や高句麗を通じて伝えられた中国の文化や、インドなどの文化の影響を受けた、国際色豊かな文化であることが特徴です。
飛鳥時代の文化は時期によって、2つの文化に分けられます。
仏教伝来によって始まった「飛鳥文化」と、大化の改新以降の「白鳳文化」。
それぞれの文化の特徴を中心に、飛鳥時代の文化を紹介していきます。
仏教の伝来から大化の改新までの文化は「飛鳥文化」と呼ばれています。
仏教の影響が強いのはもちろんですが、インドやペルシア・ギリシャ・シルクロード沿いの国々の影響も受けた建造物や仏像が特徴的です。
遣隋使や百済から伝わったことは仏教だけでなく、建築・土木・庭園・彫刻・絵画・工芸・芸能など、様々な文化も伝来しました。
仏教だけでなく、儒教や道教といった宗教も飛鳥文化の時期に日本へ伝わります。
法隆寺や五重塔を中心とした、飛鳥文化を象徴する「西院伽藍」は、現存する世界最古の木造建築となっています。
境内にも仏像や仏具が集まっており、金堂の御本尊釈迦三尊像や百済観音堂の百済観音像・大宝蔵院の玉虫厨子なども、飛鳥文化の代表作です。
飛鳥時代の仏教美術・仏像や、古墳は今も残されており、国宝や重要文化財・特別史跡となって公開されています。
飛鳥時代に活躍した天智天皇を御祭神に祀る神社も残っています。
飛鳥時代に興味を持った方は、飛鳥時代の文化を感じられるスポットに訪れてみてはいかがでしょうか。
日本最古の寺院のひとつ。
645年の大化改新の際に左大臣となった安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が安倍一族の氏寺として建立。
「西古墳」は飛鳥時代に造られた国の特別史跡。安倍倉梯麻呂の墓と伝えられ、内部は645年の創建当時のままの状態で残されている貴重なもの。
築造技術の美しさは日本一といわれています。
667年から5年間、日本の都だった近江大津宮跡に鎮座する近江神宮。
中大兄皇子として大化の改新に携わり、奈良の飛鳥から近江の大津へ都を遷した第38代天智天皇を御祭神に祀っています。
全国に16社ある勅祭社のひとつで、毎年4月20日の例祭には天皇陛下の御名代である御勅使が宮中から差遣されました。