【上野公園の観光ガイド】豊かな自然と文化で心が満たされるスポット
アクセスしやすく、多くの文化施設や神社仏閣が点在する、人気の観光スポット「上野公園」。 実は日本初の公園であり、140年以上も日本人に愛されてきた長い歴史を持つ公園でもある。 広大な敷地に見どころが多く、1日では遊び尽くせないだろう。 でも安心してほしい。 この記事を読めば「上野公園」の魅力と見どころがわかるため、「上野公園」をどのように楽しめば良いかわかるはずだ。
新しい時代の幕開けと近代化に貢献した偉人。
西郷隆盛(さいごうたかもり)は、明治維新に尽力し、日本を近代国家へ導いた幕末志士の象徴的な存在。
江戸時代(1603年〜1868年)の末期から明治時代(1868年〜1912年)の初期にかけて歴史に残る活躍をしたが、悲劇的な最期を迎えた人物でも知られる。
人望に厚かった西郷隆盛は「せごどん(西郷さん)」という愛称で人々から慕われ、現在もなお地元鹿児島を中心に日本人から愛される英雄だ。
この記事では、西郷隆盛の生涯を通じて、その人物像と数多の功績を分かりやすく紹介していく。
西郷隆盛は約260年続いた江戸幕府を終わらせ、新政府の成立に貢献した中心人物の1人。
江戸時代末期は、各国から迫られた開国交渉で不平等条約を結んだ幕府の権威が低下し、不満分子による「尊王攘夷運動(天皇を中心に考え外国人を排除する)」が起きていた。
これを薩摩藩の中心にいた西郷隆盛が収め、「薩長同盟」を結び勢力をまとめあげ、倒幕を成功させる。
最後は江戸幕府の重臣・勝海舟(かつかいしゅう)と交渉の末「江戸城の無血開城」という偉業を成し遂げた。
新政府成立後は、現代にも通ずる「学制」・「税制」・「兵制」など様々な改革を進め、日本の近代化に奮励した。
西郷隆盛は、倒幕・維新の立役者である大久保利通(おおくぼとしみち)・木戸孝充(きどたかよし)とともに「維新の三傑」と呼ばれている。
西郷隆盛の名前を知っていても、生い立ちや功績まで理解している人は少ないだろう。
そこでどのような生涯を送り、何を成し遂げた人物なのか紹介していきたい。
当時の時代背景と重ねることで、西郷隆盛の魅力をさらに感じられるはずだ。
西郷隆盛は、1828年に薩摩国(現在の鹿児島県)で、薩摩藩の下級武士の長男として生まれる。
西郷家は家族や使用人を含めると16人の大所帯だったため、決して豊かとは言えない環境で少年時代を過ごした。
幼少期から文武両道に努めた西郷隆盛は、5歳から儒教を学び始め、7歳で薩摩の「郷中(ごじゅう/武士の子を教育・指導する自治組織)」に入り、十分な教育を受け育つ。
「郷中」では、3歳下で幼馴染の大久保利通をはじめ、後に政府の要職につく優秀な人物たちと共に学んでいた。
しかし、他の郷中と争う機会も多く、ある日の喧嘩で仲裁に入った当時11歳の西郷隆盛は代償に右腕を負傷し、刀を自由に握れなくなってしまう。
この出来事をきっかけに武士の道を諦め、学問に励むことを決意する。
16歳になった西郷隆盛は、農政全般を担う役職「郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)」に就任。
気概のある上官・迫田利済(さこだとしなり)の下で、仕事への姿勢を学ぶとともに、貧困・不正・悪政など様々な世の中の現実・不合理さを痛感する。
そして、自身でも農政に関する意見書を藩に向けて頻繫に送るようになっていく。
この意見書が、薩摩藩第11代藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)の目に留まり、西郷隆盛の人生が大きく動き出す。
側近として「中御小姓(なかおこしょう/藩主の雑用役)」に任命されると、参勤交代の行列にも加わった。
さらに、江戸到着後すぐに「庭方役(にわかたやく/藩主の秘書・護衛役)」となり、島津斉彬に仕える異例の出世を遂げる。
藩主の命で各方面へ派遣された西郷隆盛は、藤田東湖(ふじたとうこ)や橋本左内(はしもとさない)など、彼の人格・思想に大きな影響を与える人物と出会っていく。
こうして人脈を広げながら、政治家として力をつけていったが、島津斉彬が急死してしまう。
ショックのあまり殉死を考えるも、僧侶・月照(げっしょう)の説得もあり、再び国のために身をささげる決心をした。
1858年に大老・井伊直弼(いいなおすけ)が中心になった、幕府反対派の弾圧「安政の大獄」が始まり、一橋派の月照が追われる身になる。
西郷隆盛らは匿っていたが、薩摩藩が月照の保護を嫌い「日向への追放=殺害」を命じた。
全てを悟った2人は、死を覚悟して海に向かって入水。
月照は死亡したが、辛うじて生き残った西郷隆盛は身を隠すために、奄美大島に流され名前も菊池源吾(きくちげんご)に変名した。
その後、大久保利通の画策で薩摩藩に戻るも、実権を握る島津久光(しまづひさみつ)の怒りを買い、徳之島、沖永良部島(おきのえらぶじま)に再び流される。
一方、西郷隆盛が流浪中の日本では、次々と起こる歴史的な事件によって緊迫していた。
1862年に薩摩藩士がイギリス人を殺害する「生麦事件」が起き、翌年にはイギリス人が報復する「薩英戦争」に発展。
また、薩摩藩などが尊攘派勢力を京から追放した「八月十八日の政変」によって、長州藩との関係も悪化した。
その結果、島津久光は行き詰まり、人材不足を嘆く薩摩藩内に求められる形で、西郷隆盛は赦免される。
約1年半ぶりに帰還した西郷隆盛は、軍賦役兼諸藩応接係(軍の最高司令官・外交の責任者)に任命され、薩摩藩の重臣になっていく。
薩摩藩に戻った西郷隆盛は、京都で起きた「禁門の変」で指揮を執り、長州藩の討伐に成功する。
この出来事で薩摩藩と長州藩の確執がさらに深まり、幕府からは長州征伐の勅命(第一次長州征伐)が出された。
参謀役に命じられた西郷隆盛は、江戸幕府の重臣・勝海舟と会談した結果、穏便に収める道を選ぶ。
幕府・長州藩を説得すると、征伐の命が解かれ両者は戦わずに「第一次長州征伐」は終息を迎えた。
しかし、幕府内で再び長州を討とうとする声が再燃し、「第二次長州征討」が発令される。
同時期に坂本龍馬(さかもとりょうま)を介して、反目し合う薩摩藩と長州藩が接近。
坂本龍馬のそれぞれが歩みよりお互いに利がある条件提示に、両者は和解した上で「薩長同盟」を結ぶ。
同盟によって薩摩藩は「第二次長州征討」の参戦を見送る。
そして、兵力差では劣勢だった長州藩が士気の高さで攻勢し、最後は第14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)の急死により、幕府軍の失敗で「第二次長州征討」の幕が閉じた。
徳川家茂の死により、第15代将軍に徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が就任した。
倒幕に向けた機運が高まる中で、薩摩藩・長州藩・土佐藩らの有力者が集う「四侯会議(しこうかいぎ)」で策を練るが、足並みが揃わない。
そんな折、大久保利通らが倒幕の密勅を朝廷から得るも、徳川慶喜が先手を打つ形で政権を朝廷に返上する「大政奉還」を上奏。
倒幕の計画が倒れるだけでなく、朝廷側に政治能力を持つ人物が不在だったため、幕府側に近しい公家たちが力を握り、実権は徳川慶喜が持ったままであった。
そのため、西郷隆盛・岩倉具視(いわくらともみ)らが、慶喜側の公家を一掃するクーデターを画策し、明治天皇(めいじてんのう)の勅命で「王政復古の大号令」を発布。
見事成功に終わると、江戸幕府の廃止と三職(総裁・議定・参与)が設置され、新政府が成立する。
さらに同日に開かれた小御所会議で、徳川慶喜の官位と所領を朝廷に返上・返還する「辞官納地」も決定した。
失墜後の徳川慶喜ら旧幕府軍は「大阪城」を拠点としていたが、薩摩藩討伐の命により東京への進軍を開始。
これを新政府軍が迎え撃つ「戊辰(ぼしん)戦争※鳥羽・伏見の戦い」が1868年に勃発した。
新政府軍側が優勢に進めると、徳川慶喜は「江戸城」に脱出を図り、朝廷側から慶喜追討令が発せられる。
こうして戦いの舞台が江戸に移り、東征大総督府下参謀を務めた西郷隆盛は「駿府城」で江戸総攻撃に備えていた。
ところが直前で、徳川慶喜の使者・山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)が、恭順の意を示す手紙を持ち、西郷隆盛の前に現れる。
交渉に応じた西郷隆盛は「徳川処分案7カ条」を提示し、問答を重ねて話をまとめた。
この話を踏まえて勝海舟との2回の会談に臨むと、水戸で徳川慶喜の謹慎・武器等の返還といった条件のもと「江戸城」の明け渡しが決まる。
これにより江戸総攻撃は中止され、西郷隆盛は「江戸城の無血開城」を実現させた。
その後、新政府軍への反抗勢力による「上野戦争」などが起きたが、「函館戦争」を持って降伏を表明し「戊辰戦争」は終わる。
明治政府樹立後の西郷隆盛は、政府への残留を断り地元に身を置き、薩摩藩の藩政に参画していた。
他方で明治政府は、役職者の腐敗や反乱事件によって、早々に権威を失い財政確保にも苦慮する。
そこで、各地の藩を廃止し新政府直下で管理する「廃藩置県」の行政改革を、人望のある西郷隆盛に要請する形で政府への復帰を依頼した。
大久保利通を中心とした説得が実り、西郷隆盛はこれを受け入れ「御親兵」という軍組織に招かれる。
藩主からの抵抗を想定した西郷隆盛は、武力行使も辞さない強い覚悟で「廃藩置県」を1871年(明治4年)に断行させた。
同年に「岩倉使節団」の岩倉具視・木戸孝允などが、不平等条約改正のために欧米諸国へ出発。
日本に残る西郷隆盛は、留守を預かる「留守政府」の実質的トップを任され、「徴兵令」・「学制」・「地租改正」などの政策を積極的に実施する。
しかし岩倉使節団と留守政府間で、改革を行わない誓約書を交わしていたため、両者に軋轢が生じていく。
軋轢が広がる一方で、明治政府は外交問題にも直面しており、特に朝鮮問題を巡る「征韓論」で衝突していた。
西郷隆盛は自ら朝鮮に赴く主張を貫き、閣議で決定まで持ち込むが、反対派の圧力で翻り朝鮮遠征は延期に。
激怒した西郷隆盛は辞意を表明し鹿児島に帰郷、同調した官僚・軍人ら約600名も次々と辞職していった。(明治6年の政変)
帰郷後は遊猟・湯治など穏やかに過ごす西郷隆盛に、私学校設立の話が舞い込む。
これを受け設立に携わると、次第に私学校は県政を握る勢力にまで拡大する。
当時は特権階級を奪われた士族の反乱が相次いでいたため、明治政府は警戒を、不平士族達は決起を期待して、鹿児島の動向を伺う。
互いに牽制し合うが、士族に我慢の限界を感じた1877年に西郷隆盛は挙兵を決意。
こうして西郷軍と政府の征伐軍が戦う「西南戦争」が熊本で起こり、約7カ月の激しい攻防が繰り広げられた。
政府軍の勝利が決定的になると、西郷隆盛は家臣の介錯により享年49歳でこの世から去る。
明治維新を進めた功労者でありながら、死後は逆賊として官位を剝奪される悲しいものであった。
しかし、西郷隆盛の人柄に惚れ込んだ明治天皇らの尽力で、1889年に「正三位」が追贈され復権を果たす。
波乱万丈の人生を送り、様々な経験を重ねた西郷隆盛には多くの逸話が残っている。
その中でも特に有名な逸話を3つ紹介したい。
これらのエピソードを通じて、謎に包まれた西郷隆盛がどんな人物だったか理解が深まるはずだ。
西郷隆盛は愛犬家として有名で、多い時には10匹以上飼っていたと言われる。
銅像にもなっている薩摩犬の「ツン」はよく知られた存在だ。
当時の犬は狩猟目的で飼育するのが一般的で、ペットにするだけでも溺愛ぶりが伝わるが、他にも犬好きのエピソードが残っている。
代表的なのが、うなぎや鶏など人間用の食事を自分よりも優先して犬に与えていた話。
また、戦争にも犬を携えたという逸話もあり、最期を迎える「西南戦争」の戦地にも連れて行った。
最後は犬の命だけは救いたいと願い、首輪を外して逃がしたのは西郷隆盛らしい。
上野公園には西郷隆盛の銅像があり、東京三大銅像のひとつになっている。
1889年に逆賊の汚名が晴れたのをきっかけに、銅像の建立案が浮上し1898年に完成した。
除幕式に招かれた糸子夫人が「うちの人はこんな人ではなかった」と怒り、義弟の西郷従道(さいごうじゅうどう)を困惑させたエピソードは有名だ。
怒った理由は、浴衣姿に草履を履き、犬を連れた西郷隆盛像の出で立ちにあった。
偉業を成し遂げた人物にも関わらず正装ではなく、さらにこんな装いで外出していなかったと言いたかったとされている。
下戸でお酒を飲まない西郷隆盛は、脂身のある豚肉やうなぎが好物で、カステラなどの甘いものにも目がなかったようだ。
西郷隆盛は運動習慣もなく明治維新で多忙を極めたため、100kgを超える恰幅の良い体型になっていく。
様子を見かねた明治天皇が、ドイツ人医師に診察を命じたところ「メタボ」が発覚する。
そのため西郷隆盛は、食事制限・投薬・狩猟/散歩による肥満治療(ダイエット)を開始し、3年で80kgまでの減量に成功した。
日本の歴史に名を連ねる西郷隆盛も他の偉人と同じく、以下のような様々な名言・格言を後世に残している。
その中でも最も有名なのが、西郷隆盛が座右の銘としていた「敬天愛人(けいてんあんじん)」。
この言葉には「天(万物)を敬い、人を愛する」という意味がある。
もう少しわかりやすくすると、「この世の全てを尊いものとして敬い、自分を含め全ての人に慈愛の心を持つ」ことが大切だと説いている。
生まれや性別を問わず平等に接し、多くの人から慕われた西郷隆盛の人柄を表現する言葉と言えるだろう。
特に学問や教育において説いていたと言われ、現在でも経営者が好んで使う言葉のひとつになっている。
西郷隆盛にゆかりのある3つのスポットを紹介しよう。
いずれも西郷隆盛の功績や幕末の光景を肌で感じられる場所としてお勧めだ。
西郷隆盛についてもっと知りたいと思ったら、ぜひ足を運びじっくりと巡ってほしい。
東京都台東区にある上野公園で、正式名称は「上野恩賜公園」。東京都建設局の管轄にある公園で、敷地面積は53万平方メートルで、広大な面積を誇り、歴史もある公園だ。
春には桜の名所として国内外から観光客が訪れるなど、東京を代表する観光スポットの一つ。
エピソードの中でも紹介した通り、西郷隆盛の像があり、フォトスポットにもなっている。
標高約107mの場所にある展望台からは市街や錦江湾、桜島を望める城山。
周辺一帯は西郷隆盛の足跡が各所に残る西南戦争最後の激戦地であり、鹿児島の歴史を語る時に欠かせない場所だ。「西郷隆盛像」や西郷軍司令部が置かれ、西郷が自決前の5日間を過ごした「西郷洞窟」、「西郷隆盛終焉の地」などの史跡が残る。
「日本の歴史公園100選」にも選ばれている広大な公園。
園内には、国宝に指定されている五重塔をはじめさまざまな史跡が点在している。
一番の見どころである国宝「瑠璃光寺五重塔」は、国内に現存する五重塔のうち10番目に古い。
幕末に活躍した薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通、長州藩の木戸孝允などが集った建物を再現した「枕流亭(ちんりゅうてい)」も必見だ。