富士山だけじゃない!魅力盛りだくさんの静岡を遊び尽くす旅行ガイド
富士山を望む絶景で有名な「静岡」だが、その他にも歴史・温泉・グルメ・アクティビティなど、幅広い楽しみ方もできる。 様々な楽しみ方ができるだけに、どのような旅行プランを立てれば良いか迷ってしまうかもしれない。 そんな時はエリア別の見どころや交通アクセス、魅力あるスポットを巡るモデルコースなどを網羅的に紹介している、この記事を参考にしてほしい。
徳川家康(とくがわいえやす)は戦国時代に終止符を打ち、江戸幕府を開いた人物です。
戦国時代の武将として、織田信長や豊臣秀吉と並んで有名な偉人。
幼い頃は人質として育てられ、人質から独立後は織田信長と同盟を結び、豊臣秀吉には臣従して忍耐強く機会を待ち、豊臣秀吉の死後に起きた関ヶ原の戦いに勝利して天下を統一しました。
徳川家康が開いた江戸幕府は約260年間も続き、江戸幕府が政権を握った時代は江戸時代と呼ばれます。
※江戸=現在の東京
戦国の世を終わらせ、長く続く時代を作った徳川家康がどんな人物だったのか、その生涯・名言・逸話から想像してみましょう。
西暦 | 起きた出来事 |
---|---|
1542年 | 三河で松平広忠の息子として生まれる |
1548年 | 織田家の人質となる |
1549年 | 今川家の人質となる |
1560年 | 桶狭間の戦いに今川家の陣営として出陣 |
1562年 | 織田信長と清州同盟を結ぶ |
1566年 | 三河国統一を果たす |
1575年 | 長篠の戦いで織田信長と共闘し、武田氏に勝利 |
1582年 | 本能寺の変により、織田信長が死去 |
1584年 | 小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉に勝利 |
1586年 | 上洛して豊臣秀吉に臣従 |
1590年 | 豊臣秀吉より関東への移封が命じられ、江戸城に入城 |
1598年 | 五大老筆頭に任命され豊臣政権の実権を握る。豊臣秀吉が死去 |
1600年 | 関ヶ原の戦いに勝利 |
1603年 | 征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開く |
1605年 | 征夷大将軍の座を三男・徳川秀忠へ譲る |
1614年 | 大阪冬の陣が勃発 |
1615年 | 大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼす |
1616年 | 死去 |
人質から始まった徳川家康の生涯を、その功績と合わせて辿っていきましょう。
徳川家康は1542年に三河国(現在の愛知県)の岡崎城で、城主である松平広忠の息子として生まれます。
その岡崎城に向けて織田信秀が侵攻したことを受け、父親である松平広忠が今川義元に援軍を要請すると、見返りとして徳川家康を人質にすることを要求されます。
要求通り今川義元の元に人質として送られますが、道中の警護についていた家臣が裏切り、売り飛ばされる形で織田信秀に人質として売り飛ばされました。
織田信秀の元で人質として6歳〜8歳の間を過ごしますが、8歳になったタイミングで人質交換を経て、今川義元に送られることに。
今度は今川義元の元で人質として過ごすことになります。
織田信長と今川義元の間で起こった、1560年の桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にした翌年に、徳川家康は独立し織田信長と青洲同盟を結びます。
少しずつ力をつけ、東と西に分かれていた三河国を統一。
武田信玄の協力を得て、人質にされていた今川氏を攻めて滅ぼします。
協力を得ていた武田信玄が織田信長と対立したことで、徳川家康は武田信玄から攻められ、三方ヶ原の戦いにて惨敗。
その後、武田信玄がなくなったことを機に、逆に攻め立て長篠の戦いにて勝利。
武田信玄の領土は徳川家康の領地となります。
1582年の明智光秀による本能寺の変で、同盟を組んでいた織田信長(おだのぶなが)が死去。
織田信長の領地であった、甲斐(現在の山梨県)・信濃(現在の長野県)・上野(現在の群馬県)を攻略し、自分の領地に。
元々の領地だった遠江(現在の静岡県)・三河と併せて5ヵ国の大名へと成長します。
豊臣秀吉と織田信長の息子である織田信雄の争いの中で、徳川家康は織田信雄の軍に味方し、小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀吉の約10万人からなる軍に対して、徳川家康・織田信雄の約1万6千人の軍で撃退。
小牧・長久手の戦いは豊臣秀吉の講和を織田信雄が受託して停戦となったため、徳川家康は豊臣秀吉と戦う理由がなくなります。
その後、天下統一を目指す豊臣秀吉は、五ヵ国を治める大名である徳川家康を服属させようと接近してきます。
徳川家康は臣従することを拒否していましたが、豊臣秀吉は自身の妹を嫁がせたり、母親を人質として送るなどあの手この手を使い、臣従させようとします。
最終的には根負けをして、徳川家康は豊臣秀吉の臣下となりました。
臣従した豊臣秀吉が1590年の小田原征伐により、天下を統一します。
その豊臣秀吉から、これまでの領地を奪われ、関東8ヵ国の移封を命じられて江戸城へと本拠地を移します。
豊臣秀吉の狙いは徳川家康の勢力を奪うためでしたが、関東の領地経営や軍制改革に力を入れ、有力な家臣を各地に配置し、関東での支配力を強めていきます。
それだけでなく、武田軍の旧家臣や北条氏の家臣を迎え入れて軍事力を強め、結果的に徳川家康はさらに勢力を強めました。
自身の勢力を強めるだけでなく、豊臣秀吉へ様々な貢献をして信頼を獲得していきます。
1598年に豊臣秀吉が亡くなり、豊臣秀吉の遺書によって豊臣政権下で最高権力の五大老へ任命されます。
その権力を活かし、天下統一のために徳川家康が着々と勢力を伸ばしていきますが、それを快く思わない石田三成らと対立することに。
その対立がきっかけとなり、石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍による関ヶ原の戦いが1600年に起きますが、徳川家康率いる東軍が勝利しました。
関ヶ原の戦い後、西軍の主たる人物を処罰し、豊臣家を大幅に縮小させることで、徳川家康の元で再び天下が統一されました。
1603年には朝廷から征夷大将軍に任命され、日本の最高権力者となり、江戸幕府を開きます。
最高権力者になり幕府を開いたものの、まだまだ安定した政権とは言い難い状態でした。
そのため、大名を統制するための武家諸法度や、朝廷の朝廷の行動を規制する禁中並公家諸法度などの政策を行い、徳川家・江戸幕府の安定した政権の確立を目指します。
幕府設立後からたった2年後の1605年に、三男の徳川秀忠へ将軍職を譲ります。
将軍を自身の子供に継がせることで、江戸幕府が世襲制であることを天下に明らかにしました。
しかし、秀忠に将軍職を譲った後も、徳川家康は大御所という立場で政務を指導していきます。
この時点で過去に天下統一していた豊臣氏は滅亡しておらず、江戸幕府の反対勢力が豊臣家の元に集まっていきます。
豊臣氏を滅亡させるために挙兵し、1614年・1615年の大坂冬夏の両陣で豊臣氏を滅亡に追い込み、江戸幕府を盤石のものとします。
その後、1616年に徳川家康は死去し、その翌年に久能山東照宮に祀られました。
死因は天ぷらの食べ過ぎによる消化不良という説もありますが、直接的な死因は胃ガンだと言われています。
徳川家康は数多くの名言を残していますが、有名な将軍を退位する時の遺訓は特に有名です。
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。
こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。」
わかりやすく意訳すると、このような意味があります。
「人の一生は重い荷物を背負って、遠い道を歩くようなものだから、急いではいけない。
不自由が当たり前だと思えば、不満は生じない。
欲が出てきたら、苦しかった時を思い出すこと。
我慢することが無事に長く安らかでいる基本で、怒りは敵だと思いなさい。
勝つことばかりを知って、負けることを知らないことは危険だ。
自分を責めても、人を責めてはいけない。
やりすぎることよりも、足りないぐらいが良い」
人質となった幼少期から苦労を重ね、天下を取った徳川家康の人柄が表れている名言といえます。
名言と合わせて、徳川家康の人柄がわかる逸話をご紹介します。
年老いたずる賢い男を罵る時に使われる「狸親父」が、徳川家康のあだ名になっているなんて、びっくりですよね。
「狸親父」と呼ばれる理由は、徳川家康のでっぷりと太った体型だけではありません。
腹黒くずる賢い性格だったことも理由だと言われています。
その性格を表す具体的なエピソードを、1つご紹介します。
徳川家康が三河の大名時代、領地内の一向一揆に苦戦していました。
そこで一揆側の要求を呑む形で和睦を結び、一向一揆を起こしていた団体を解散させます。
そして、解散した途端に手のひらを返して、武力を持って一向一揆を起こしていた団体に参加していた人物達を鎮圧しました。
このような人を欺くようなエピソードがいくつもあるため、狸親父と呼ばれてもしょうがないかもしれませんね。
狸親父というあだ名や体型から温厚なイメージがあるかもしれませんが、実はかなりの負けず嫌いなんです。
1573年に起きた三方ヶ原の合戦で、徳川家康は武田信玄に惨敗。
この戦から逃げる際、恐怖のあまり馬上で脱糞してしまいます。
自身では脱糞したことに気がつかず、家臣に脱糞したことを指摘されると、素直に認めず「これは糞ではなく、味噌だ」と言い張った。
という話があります。
家臣の前だということもあるかもしれませんが、あまりにも無理な言い訳をしている徳川家康が可愛らしく思えるエピソードですね。
豊臣秀吉に徳川家康が臣従していた時期に、豊臣秀吉の「自慢の宝物はなんだ」という質問に徳川家康が「私のために命懸けで戦場を駆けてくれる家臣が、私の宝である」と答えたというエピソードがあります。
このエピソードから、普段からいかに徳川家康が家臣を大切に思っているかがわかりますね。
「上司にしたい戦国武将」といったアンケートでは、必ず徳川家康の名前が上がるのは、「家臣思い」であることも一つの理由かもしれません。
徳川家康は、無駄な出費をとにかく嫌う倹約家でも有名です。
・家臣が衣服を新調しただけで怒った
・同じ衣服をずっと着用した
・壊れた馬小屋を直さなかった
など、その倹約ぶりを表すエピソードは数多くあります。
ただ、大事な場面では惜しみなく出費したことから、お金を大切にしているからこそ、普段は倹約に努めていたことがわかりますね。
徳川家康は、平均寿命が35歳程度と言われていた時代で75歳まで生きました。
もちろん、戦で死ななかったことも長生きできた理由ですが、もう一つの理由は「健康オタク」だったことです。
健康のために栄養価の高い麦飯を好んで食べたり、自ら漢方薬を調合したり、日頃の運動を欠かさなかったなど、自己管理を徹底していたエピソードが数多く残っています。
女性の好みは年齢とともに変化し、若い頃は熟女好きだったが、60代にして一転。
10代の女性を好むようになったとされています。
徳川家康は晩年になっても子作りに励み、妻が20名・子供が16名いたとされています。
江戸幕府・徳川家のために子孫を残すことが重要だとは言え、いくらなんでも妻と子供が多すぎるように感じますよね。
徳川家康と縁がある建物は、現在の日本にも数多く残っています。
徳川家康が亡くなった翌年の1617年に建てられた日光東照宮は、世界文化遺産「日光の社寺」として登録されています。
日本各地から集めた名工により様々な装飾や彫刻が施されており、「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の彫刻が有名な神厩舎。
建物全体がおびただしい数の極彩色の彫刻で覆われ、一日じゅう見ていても飽きないということから「日暮御門」とも称される「陽明門」など、見どころが多くあります。