歴史を知れば日本旅行がもっと楽しめる!「日本の歴史」をわかりやすく解説
観光スポットや歴史的建造物など、観光でよく訪れる場所の背景を知れば、日本をもっと楽しめるはず。 その背景となるのは当然、日本の歴史です。 原始時代から綿々と続く日本の歴史の流れと、各時代ごとに起きた主な出来事を一挙にご紹介。 日本を旅行する前に、日本の歴史を勉強してみてはいかがでしょうか。
1868年の明治新政府の発足から、1912年明治天皇が亡くなるまでの44年間を明治時代と呼びます。
この時代の日本では政治的に大きな変革が起こりました。鎖国をし世界の進歩からとり残されていた日本は、この半世紀間の間に欧米諸国にならって立憲制を採用し、資本主義のベースを確立して、かなりのスピードで近代国家への発展を遂げました。軍事的にも列強の一つとして他国を脅かす存在となったのもこの時代からです。また、西洋の文化が入ったことにより、生活だけではなく芸術の面でも大きな変化が生まれました。
江戸時代までは他国からの干渉を遠ざけるため「異国船打払令」を敷いて、日本に近付く外国船を武力で追い払う、「鎖国」状態を続けていた日本ですが、1853年(嘉永6年)アメリカの東インド艦隊提督「ぺリー」が開国を求め、4隻の艦隊で突如浦賀に来航。近代的で圧倒的な西洋の武力を見せ付けられて、ついに1854年(嘉永7年)江戸幕府は開国させられました。
明治時代になって、まず初めに政府が行ったのは、天皇を中心とする政権体制を固めることでした。「廃藩置県」は、250年以上続いた地方統治システム「藩」を廃止して、新たに明治新政府が制定した「県」を置くという政策です。
江戸時代には、江戸の徳川将軍と主従関係を結んだ地方の大名(藩)が、与えられた領地・領民を支配していましたが、外国に負けない強い国家を作るためには、地方に分散した権力を天皇の名の下に新政府へ集める中央集権化が欠かせないとこの政策が進められました。今の日本の43都道府県の原型ができあがったのもこの時代がきっかけになります。
開国後に他国との差をまざまざと見せつけられた日本は欧米諸国との差を埋めるためにさまざまな制度に取り組みました。
明治政府内で富国強兵を中心となっておこなったのが、「維新三傑」と呼ばれる中の一人、大久保利通。
明治政府として大久保利通が掲げた代表的な改革が「学制」「税制」「兵制」の3つです。
まず初めに取り組んだのが学制でした。国に力をつけるためには、国を動かしていく国民の学力を向上させる必要があると考えたからです。
学制は1872年に発令され、身分・性別等関係なく誰もが学校に通えるようになりました。
国の財政が安定しないことも、この頃の明治政府の大きな悩みでした。政策を実行するには、膨大な費用がかかります。しかし当時の税制度は、農作物を納める「年貢」が基本のため、毎年の収穫量によって収入が大きく変わってしまうのです。
税収を安定させるために政府は「地租改正」を制定し、収穫の量ではなく、それぞれの土地に課税することにしました。収穫の多さに左右されない税制度になることで地租改正を機に一定の税金が入ってくるようになり、政府の財政は安定しました。
さらに、地租改正により、個人が土地の所有者と認められ、売買も可能になり土地の売買なども生まれるようになりました。
当時の日本にはまともに軍隊と呼べるものがなく、戊辰(ぼしん)戦争の「官軍(明治政府軍)」も、各藩の藩士が寄り集まっていただけでした。
政府は国民から兵士を集める「徴兵令(ちょうへいれい)」を公布します。徴兵令によって、満20歳以上の男性が、原則として3年間の兵役に就くことになりました。
地租改正などの重税で小規模農家は生活する術を失いました。その反面、三井・三菱といった政府に優遇を受けた政商の存在もあり、民衆を中心として多くの一揆が起こりました。
それに伴い1874年辺りから、政治に民意が反映されていないとして板垣退助を中心とした自由民権運動が起こります。
当時の日本では西洋の考え方として、天賦人権の思想と呼ばれる考え方が流行っていました。
「人間には健康・自由に生きる権利があり、その権利はたとえ政府であっても妨げることはできない」という思想です。この考え方は自由民権運動の大きな後押しとなりました。
政府の近代化政策により欧米の文化がさかんに入って、民衆の生活も変化してきました。これを文明開化と呼びます。街ではレンガづくりの建物が増えたり、道路にはランプやガス灯がついて馬車が走ったりしました。印刷の普及で新聞が発行され、福沢諭吉の「学問のすすめ」や中江兆民のルソーの思想など、新しい思想も紹介されました。服装や食べ物など民衆の生活が欧米化してきたのもこの時代です。
上流階級の間では制服や礼服として早くに洋服が広まりますが、庶民の間ではまだこの頃は着物が一般的でした。
しかし髪型は明治に入って大きく変化がありました。「散髪令」によってちょんまげを切ることが強制されることになり、男性は現代のような洋風の短髪になったのです。
上流階級の間では少しづつ西洋料理を食べることが増えはじめた明治時代ですが、やはり普段自宅で食べるのは和食がメインだったようです。
そんな中、一般庶民の間で流行したのが「牛鍋」でした。すき焼きのような料理で、味噌や醤油、砂糖などを使った日本人向けの味つけが受け人気を博しました。日本ではそれまで仏教の影響から、動物の肉を食べる習慣自体があまり無かったそうです。
また、この頃から西洋のダイニングテーブルを模したちゃぶ台が登場し、同じ食卓を家族で囲むという文化が生まれました。
生活を便利にしたアイテムとしては、ランプやマッチがこの頃から使われるようになりました。江戸時代まで使われていた行燈(あんどん)やろうそくに比べ、石油式ランプはかなり明るく、銀座などの繁華街には、通り沿いにガス灯が設置され、街を明るく照らしました。
明治時代初頭は西洋の文化が入ってきたことにより、欧米のスタイルが栄えていましたが、国粋主義の台頭と相まって伝統美術の良さも見直され、結果として伝統芸術への回帰が進んでいきます。伝統的・日本的な美術と西洋の美術は、どちらを良しとするか対立していましたが、1907年に文部省美術展覧会を設置、両者共栄の道へと向かうことになりました。そんな両方のスタイルが合わさった明治時代の芸術家達を振り返りましょう。
竹内栖鳳(たけうちせいほう)は、京都の小料理屋で生まれた近代日本画の先駆者です。
動物を描かせたら匂いまで描くといわれるほど、毛並みの柔らかさが感じられるような生々しくも繊細な作風が特徴です。日本だけではなく、ヨーロッパを旅した経験があり、象やライオンなど西洋の動物達も描いていて、海外からも高い評価を受けている巨匠です。
下村観山(しもむら かんざん)は和歌山県に生まれた日本画家です。
観山の作品は、絵の具が乾かないうちに他の色を垂らし紙の上で混色するという「たらしこみ」の技法、余白を活かした大胆な構図が特徴です。また古来からの技法である、描線を塗りつぶさないように線を避けて塗り分ける彩色方法「彫り塗り」や、輪郭線を使わずに筆の側面を使いながら一筆描きで印影や立体感を表す技法「付け立て」などが組み合わされているのが特長です。
古くからの日本画の技術と今までの日本になかった西洋の色使いを融合させて新しい作品を作った作家の一人です。
川合玉堂(かわい ぎょくどう)は日本の自然を愛し、明治から昭和にかけて山河や四季の風景を描いた日本画家です。近代的な空間構成と幾何学的な構図ながらも水墨画のようなスタイルで川合玉堂の描く自然美は日本だけでなく海外から高く評価されています。また風景画だけでなく俳句や歌集などをまとめて歌集も作っており、文化的素養に優れた人物でした。
約200年続いた鎖国の時代が終わりを告げ、華やかな西洋の文化が入ってきた明治時代。日本が近代国民国家へと成長する大きなきっかけとなる時代でした。
そんな明治時代の雰囲気を感じられるスポットをご紹介いたします。
明治時代の雰囲気を感じたいという方は、ぜひ足を運んでみてください。
重要文化財11件を含む67棟の建造物。京都市電や蒸気機関車、明治時代のドレスを試着しての記念撮影、牛鍋を食べられる店があったり、当時の文化を体験できる野外博物館です。
蓄音機を日本に伝えたとされるアメリカの貿易商、F.W.ホーンの別荘として建造された石造りのレストランです。明治時代の雰囲気を感じながら、西洋料理の逸品が味わえます。
明治時代に火力発電所として建造された建物で、明治時代の煉瓦造りの外観を保存するため、当時の外観をそのままに造幣博物館として開館しています。貨幣の歴史や古銭をはじめとする国内外のお金の移り変わりを学べる博物館です。