伊達政宗

伊達政宗は、「あと20年生まれるのが早かったら天下をとれた」と囁かれる人物。
幼少期に右目の視力を失ったことは、現代でも尚、象徴的な印象を与えています。
戦国大名の蘆名氏(あしなし)を滅亡させ、東北最大の領地を誇る覇者となり、小田原合戦では豊臣秀吉に、そして関ヶ原の戦いでは徳川家康の元にも仕えました。
関ヶ原の戦い後には仙台藩の初代藩主となり、新田開発や土木工事に尽力し、江戸の食を支える役割を大きく担うことになりました。

ポイント

  • 安土桃山時代から江戸時代前期にかけて活躍した武将であり、東北を平定して仙台藩を開いた人物
  • 5歳で右目の視力を失う
  • 伊達家17代目の当主となる
  • 戦国大名「蘆名氏」を滅亡させ、東北最大の領地を誇る覇者となる
  • 仙台藩初代の藩主となる

伊達政宗の人物年表

西暦 起きた出来事
1567年 伊達輝宗の嫡男として、出羽国(現在の山形県、及び秋田県)で生まれる。
1571年 疱瘡(天然痘)を患い、右目の視力を失う。
1577年 元服し、父・伊達輝宗より伊達藤次郎政宗と名付けられる。
1579年 陸奥国、当主・田村清顕より婚姻の相談を受け、娘・愛姫と結婚。
1581年 現在の宮城県伊具郡にて、相馬家との合戦で初陣を飾る。
1584年 父・伊達輝宗が隠居。家督を継ぎ、伊達家17代当主となる。
1585年 畠山家が父・伊達輝宗を拉致し、その後殺害。
1586年 畠山家を滅ぼす。
1587年 豊臣秀吉が惣無事令を発令。伊達政宗は、これに応じず。
1588年 大崎家へ侵攻をかける。伯父・最上義光が、義兄である大崎義隆側に立ち、これに参戦。
1589年 摺上原の戦いで、蘆名義広を破る。
1590年 豊臣秀吉の小田原征伐に参陣。
1591年 葛西大崎一揆が発生。首謀者と疑われるも、死に装束で馳せ参じたことで事なきを得る。
1592年 文禄の役へ参戦。
1599年 長女・五郎八姫を徳川家康の六男・松平忠輝に嫁がせる。
1600年 慶長出羽合戦で直江兼続と戦う。関ヶ原の戦いで東軍が勝利したため、直江軍は撤退。
1601年 仙台藩初代藩主となる。
1613年 ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)へ、家臣・支倉常長らを派遣。
1614年 大坂冬の陣に参戦。
1623年 北上川の治水工事を開始。
1636年 病により死去。

伊達政宗の生涯

幼少期に右目の視力を失った伊達政宗の生涯を、功績と合わせて追ってみましょう。

右目の視力を失った幼少期

伊達政宗の出生地・山形県米沢市
伊達政宗の出生地・山形県米沢市

1567年伊達政宗は、出羽国米沢城(山形県米沢市)で誕生。
政宗公は、信長や秀吉、そして家康より約30歳前後も年下であり、戦国時代も終盤にさしかかっていた頃に生まれました。
父は伊達氏16代当主・伊達輝宗(だて てるむね)、母は出羽国の戦国大名・最上義守(もがみ よしもり)の娘にあたります。

そんな両親を持つ政宗は、自身を「梵天丸(ぼんてんまる)」と名乗っていた幼少の頃、天然痘を患い右目の視力を失ってしまいます。
天然痘は、ウイルスを病原体とする感染症の一つで、全身に膿疱が発生し、当時は感染者の4~5割が亡くなる恐ろしい病でした。
幸い一命を取りとめましたが、目の部分にできた膿疱が原因で失明したといわれています。
失明した右目にコンプレックスを感じた政宗は内気な少年に。

そんな政宗を変えたのは、父・伊達輝宗によって招かれた、虎哉宗乙(こさい そういつ)です。
虎哉宗乙は文芸の師として、仏教、漢学、文学など学問の政宗に教えるだけでなく、政宗に「武将としての生き方」を示しました。
幼い頃から学問に触れた政宗は、漢詩・和歌・能など文学の教養が深く、少年ながらも一目置かれる存在となりました。

"政宗"の由来

伊達政宗の家紋
伊達政宗の家紋

1577年に元服を迎えると、「伊達藤次郎政宗」と名付けられます。
「次郎」は伊達氏当主代々が名乗ってきたものであり、「政宗」は衰えていた伊達家を再興させた9代当主・伊達政宗からとられたようです。

13歳で結婚

田村清顕の城のイメージ
田村清顕の城のイメージ

1579年、政宗が13歳の頃に、田村郡美春(福島県美春町)の城主・田村清顕(たむら きよあき)の娘・愛姫(めごひめ)と結婚します。
愛姫の実母は、伊達氏と対立し、軍事衝突を繰り返している相馬氏14代当主・相馬顕胤(そうま あきたね)の娘であり、相馬氏側の勢力を切り崩すための政略結婚でした。

結婚後、愛姫は時の政権である天下人と良好な関係を保つため、政宗の人質として各地を転々とする生涯を送ることとなります。
政宗と愛姫は、離れ離れで過ごす期間の方が長かった夫婦ですが、4人の子供に恵まれました。

伊達家17代目当主となる

仙台城跡にある伊達政宗の像
仙台城跡にある伊達政宗の像

1581年、政宗が15歳の時に初陣を飾ります。
その舞台となったのは、現在の宮城県伊具郡丸森町。相馬家との合戦でした。
この合戦は1576年以降この地をめぐり伊達と相馬が争った戦で、政宗が初陣を飾った伊具郡丸森町には、「伊達政宗 初陣の地」という看板が立てられています。

1584年になると、政宗は18歳で家督を継ぎ、伊達家の当主となりました。
その翌年に、伊達家に降参した二本松城(福島県二本松市)の城主・畠山義継が宮森城(福島県二本松市)で隠居していた父・伊達輝宗を拉致し、その後殺害。

その当時、小浜城(福島県二本松市)にいた政宗は、知らせを聞いてすぐに駆けつけますが、すでに手に負えない状態。
結果、取り囲んだ伊達勢が鉄砲を撃ち、畠山義継と主従50名、そして父・輝宗もろとも撃ち殺したといわれています。
それ以降、政宗は領土拡大を積極的に行ないます。
1589年には、「摺上原の戦い」で強敵だった蘆名氏を破り、伊達政宗は福島県と宮城県にわたる大きな領土を手に入れ、武将としての名を周辺諸国へと知らしめることとなります。

秀吉の傘下で小田原合戦へ

伊達政宗に小田原合戦に参加するように促した豊臣秀吉
伊達政宗に小田原合戦に参加するように促した豊臣秀吉

1590年、豊臣秀吉による北条氏討伐を掲げた小田原合戦が起こります。
政宗の元にも、秀吉から小田原合戦に参戦するよう書状が届きました。
政宗が23歳の時です。

しかし、関東の一大勢力である北条氏とは、政宗公の父・伊達輝宗の時代から同盟関係にありました。
その為、政宗には2つの選択肢がよぎります。
1つ目は「玉砕覚悟で北条氏と手を組んで戦うか」
2つ目は「一旦、秀吉の傘下について、突破口を探るか」。

秀吉の傘下につくことを選択した政宗は、6月に小田原に到着します。
しかしその頃にはすでに北条氏の敗北は濃厚になっており、遅れてきた政宗は秀吉の怒りを買うこととなってしまうのです。
その結果、北条家の次に伊達家に攻め込まれることは回避したものの、会津など政宗が持つ領土の一部を、秀吉に没収されることとなります。

関ヶ原の戦いでは徳川家康に仕える

伊達政宗が仕えた徳川家康
伊達政宗が仕えた徳川家康

豊臣秀吉の死後、政宗は徳川家康のもとに仕えます。
1599年には伊達政宗の長女・五郎八姫が徳川家康の6男・松平忠輝と婚約していることから、政宗が徳川家との関係を深めようとしていたことがうかがえます。
このことが、後の江戸幕府の基盤作りに貢献したと言えるでしょう。

1600年に関ヶ原の戦いが起こると、政宗は東北にて米沢藩の直江兼続と戦いました。
この時、伊達政宗は戦で勝ち取った領土はすべて自分のものにしていいという「100万石のお墨付き」を徳川家康より受け取ります。
しかし、領土の拡大を目論み、政宗が裏で一揆を煽っていたことが知られ、政宗が実際に手に入れられたのは62万石の領地だけでした。
家康が亡くなった後も、政宗は徳川秀忠、徳川家光と、3代に渡り徳川家に仕え、忠実を尽くしました。

仙台藩の初代藩主となる

仙台藩で作られた奥州米のイメージ
仙台藩で作られた奥州米のイメージ

徳川家から62万石の領地を手に入れたことで、政宗は仙台城に拠点を移します。
そこで、仙台藩の初代藩主となります。

政宗は天下をとることを諦め、自らの領地である仙台の新田開発に着手します。
新田開発だけでなく神社や寺の整備などにも積極的に取組み、人民の生活の向上にも貢献しつつ、土木工事などにも着手したことで江戸へ作物を運搬できる環境も整えました。
仙台藩で作られた米は江戸へと流れ、江戸で消費される米の3分の1は仙台藩の奥州米であったともいわれています。

伊達政宗の死因

伊達政宗の兜のイメージ
伊達政宗の兜のイメージ

仙台藩の経営に尽力した政宗は、1634年頃から体調を崩し始めます。
1936年に参勤交代で江戸に向かった際、その衰弱ぶりに驚いた3代将軍・徳川家光は、翌日には数十名の医者を呼んだそう。
しかし病状は回復することなく、家光自ら江戸城下の藩邸に足を運び、政宗を直接見舞いに訪れました。

同年、参勤交代からわずか1ヶ月あまりで政宗はこの世を去ります。
政宗の死因は食道がん、またはがん性腹膜炎と言われています。
政宗は生涯隠居することなく、最期まで現役を貫き通しました。

伊達政宗の名言

・朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし。元来客の身に成れば好き嫌ひは申されまじ。
・馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である
・まともでない人間の相手をまともにすることはない。
・この世に客に来たと思へば何の苦しみもなし。
上記のように、伊達政宗の名言は、短くも分かりやすいものが多く残っています。
「食」に関する発言が多いのが印象的ですね。
その他にも「対人関係」や「人生観」についても謳っており、現代人の心にも響くその内容からは、伊達政宗の道徳心を感じられます。

伊達政宗の逸話

名言と合わせて、伊達政宗の人柄がわかる逸話をご紹介します。

眼帯はしていない

近年のフィクション作品では、度々眼帯姿のキャラクターが描かれているが、実際の記録には目を覆っていた様子はない。

あだ名は「独眼竜」

政宗が隻眼であったことから、同じく隻眼で「独眼竜」と呼ばれていた唐の猛将に由来して呼ばれるようになったそう。

料理好きだった

宮城の名物として知られる「ずんだ」「仙台味噌」「伊達巻」などは、伊達政宗が考案したという説もある。

愛煙家

1日4回、規則正しく喫煙をしていたそう。喫煙後は自ら喫煙具を磨き煙管箱に納めていた。
墓所である瑞鳳殿からは、立派な煙管箱と竹製の掃除具が発見されている。

伊達政宗と縁がある建物

伊達政宗と縁があるお城や建物、観光スポットを3つご紹介。

仙台城跡(青葉城)

伊達政宗公の命によって築城された仙台城。
通称「青葉城」とも呼ばれ、以来270年にわたって藩政の中心だった。
現在一帯は公園として整備され、公園内には仙台を代表するシンボル「伊達政宗公騎馬像」があり、夜間にはライトアップも行われる。

円通院

伊達政宗の孫、伊達光宗の菩提寺として正保4 (1647)年に建てられた円通院
円通院は紅葉の名所として知られ、10月下旬から11月中旬にかけて見頃を迎えるので、秋に訪れるのにおすすめのスポット。

瑞鳳殿

仙台藩祖の伊達政宗の霊廟。
寛永13(1636)年に没した政宗の遺命を受けて、第2代藩主の忠宗によって翌年に建てられた。
瑞鳳殿は昭和6(1931)年に国宝に指定されるも、昭和20(1945)年の仙台大空襲によって焼失したため、現在の建物は以前の建物を踏襲して、昭和54 (1979)年に再建されたものとなっている。

写真

  • 伊達政宗のイラスト

    伊達政宗のイラスト

  • 伊達政宗の出生地・山形県米沢市

    伊達政宗の出生地・山形県米沢市

  • 田村清顕の城のイメージ

    田村清顕の城のイメージ

  • 仙台城跡にある伊達政宗の像

    仙台城跡にある伊達政宗の像

  • 伊達政宗に小田原合戦に参加するように促した豊臣秀吉

    伊達政宗に小田原合戦に参加するように促した豊臣秀吉

  • 伊達政宗が仕えた徳川家康

    伊達政宗が仕えた徳川家康

  • 仙台藩で作られた奥州米のイメージ

    仙台藩で作られた奥州米のイメージ

  • 伊達政宗の兜のイメージ

    伊達政宗の兜のイメージ

伊達政宗のプロフィール

名前
伊達政宗
生年
1567年9月5日
没年
1636年6月27日
享年
68歳
出生地
出羽国(現在の山形県と秋田県)